浦安市生涯学習情報提供システム「まなびねっとURAYASU」団体活動紹介歴史(一般)群馬の城探訪旅行『箕輪城・高崎城・神流川合戦場跡を訪ねて』

群馬の城探訪旅行『箕輪城・高崎城・神流川合戦場跡を訪ねて』

公開日:2021年01月07日 最終更新日:2022年05月13日
登録元:「歴史ロマンの会
タイトル
群馬の城探訪旅行『箕輪城・高崎城・神流川合戦場跡を訪ねて』

詳細

2019年11月に関東の城シリーズが千葉県の城から始まり、1都6県の城の座学をした後、第9回現地探訪は10月13日(火)に群馬県の城と神流川古戦場の見学日帰りバスツアーを行った。
この旅行は当初3月に行う予定の、新浦安駅近くからバスに乗車する周遊行程で足腰に自信のない方の参加希望も多い、人気の企画でした。しかし2月に新型コロナ感染拡大防止の為浦安市の勧告で延期になり、講座も途中遠隔講座に切り替えながら進め、当初より参加者は減ったがコロナ対策をとりGoTo トラベルを利用して執り行うことが出来た。
 北条氏の最前線の戦いの地で、井伊直政が居城とした箕輪城と、のちに高崎城を築城する際にその箕輪城の多くの建物を移築した遺構を見学した。
4世紀後半築造の竪穴式円墳に滝川一益が本陣を置いたと伝えられ、古墳上から現在は稲穂が垂れる水田を見渡した後、負けた滝川軍の首塚八幡・胴塚稲荷へ。
神流川橋のたもとに古戦場跡の碑があり、見学後GoToトラベルのクーポンを利用してガトーフェスタハラダでお土産を購入して、新浦安駅へ帰着した。
 
写真は、箕輪城本丸跡地で記念撮影。

箕輪城 
(平成17年に日本百名城に選定)

 当初在地衆長野氏の城であったが北条氏の拠点となり、その後武田軍の拠点となった。北条氏が滅亡した後に徳川軍の井伊直政が居城とした。
 榛名山の東南麓に広がる独立丘陵の中心部にあり、川や沼など自然の地形を巧みに利用した構造で、尾根上の曲輪を城の中心軸として線対称的に丘陵上に配している平山城である。
城域面積約36haと戦国時代の上野国において屈指の規模を誇る城郭を、ハイキング気分で見学した。平成28年に復元された郭馬出西虎口の櫓門をくぐり二の丸へ。食後に本丸西虎口木橋の修復中の土台を見学し、本丸、三の丸石垣、北に伸びる幾つかの曲輪など視察。昼食は二の丸で高崎名物だるま弁当を食した。

写真は、復元された郭馬出西虎口の櫓門

高崎城

 戦国中期から江戸末期まで地域の拠点の城で、箕輪城の建物を多く移築して造られた。現在は明治時代に軍隊用に堀などが埋め立てられ、公園と市役所になっている。
『乾櫓』は、一階と二階が同じ大きさで、本来は一階の庇は無く二階の屋根も切妻で、日本最古の城郭建築の可能性がある。明治初期に払い下げられ、近郊の農家の納屋として使用されていたが、本来の方角(北西)と異なる東北に移築されているのを見学。三の丸外堀の土居と堀も見学した。

写真は乾櫓

神流川合戦

 天正10年、信長の死により関東も騒乱に入る。上州を押さえる滝川一益に対し北条氏が全力で対抗。滝川が関東から駆逐される関東地方最大の戦闘。
河川以外の障害物がない平原での大激闘の地を、コロナ対策で仕立てた大型バスの為、狭い農道に苦労したが運転手のお陰で見学できた。
 写真の竪穴式円墳は、一益が本陣を置き軍配をふるったと伝えられ、軍配山古墳とも呼ばれる。中国渡来の鉄器類などの出土品から、古墳時代の有力な支配者的存在の墳墓と推定されている。

この情報は、「歴史ロマンの会」により登録されました。

この記事をチェックした人はこんな記事もチェックしています